第146回 少年時代3 by岬のおっさん

 

調子こいてまた少年時代の続きを書きます。今度はもうかなり年食ってからになるので、少年時代とは言えないかも知れませんが、とにかく箕島の人間ですから、箕島高校のことを語らせてください。それは同時に私の尊敬する指導者像の話でもあります。

以前も書いたように箕高野球部は私の小学生時代は出ると負けの一回戦ボーイでした。そんなところへ尾藤監督がやってきました。

彼は地元箕島の出身で、箕高野球部が弱い時代のOBで近畿大学へ進み、箕島へ戻ってしばらく銀行に勤め、そのあと、66年(私が中2の年)から野球部の監督になります。まだ24歳の青年監督です。そして68年の選抜へ出場・・・と言うから、素晴らしいスピードで母校を強くした訳です。

それにはまずリクルーティングということがあります。おそらく監督になったばかりの頃、何の実績もない箕島高校へ、当時強豪中の強豪であった京都の平安高校に既に入学の決まっていた東尾修を引っ張り戻したのです。(知らない人のために・・東尾修は200勝投手。東尾理子の父。だから石田純一の義理の父。)

いくら東尾が箕島から近い吉備町の出身で校区内だからと言って、甲子園未経験の公立の箕島高校へ引っ張ってくるのは、私は尾藤監督の人間的魅力が相当大きな要因だったのではと思っています。

ラグビーだって私の知っている強豪校はほぼ間違いなくリクルーティングに労を惜しまない監督さんが情熱をもってやっておられます。チームが強いから自然と選手が集まってくる・・・なんてことはありません。

さて、その頃、私はまだ中学生で、和歌山から汽車に乗って帰り、箕島駅へ降りると、仲間と一緒によく関東煮屋へ行きました。その道すがら、よく箕高野球部員とすれ違うのです。彼らは腰・臀部がすごく発達していて、ずらーずらーっと靴を引きずりながら歩くので、ぼくらは最初相撲部員だと思っていました。そんな中にひときわ下半身が異常に発達した好漢が居ました。これが若き日の東尾修です。

当時うちの親父は、箕高が少しずつ強くなってきたので、カブで配達に行った帰りなどにしょっちゅう箕高のグランドへ行くようになりました。まだ本当に強くなるまでは追っかけの女の子なんてのは一人も居ません。おいやん、おじやん、ばっかりです。
バックネットの裏でみなタバコ吸いながら見てるので学校もええ迷惑だと思うのですが、そういう人達が野球部を支えてくれるのです。

右上の写真はバックネットの側からセンター、ライト方向を見た感じですかね。奧はミカン山。ヒマな人はバックネットまで行って見学するし、時間のない人はこの写真が撮られたあたり(堤防道路)に車や単車を停めてちょっと見て帰ります。右の写真が今の箕島高校ですが、ライトの奧にはまだミカン畑がありますね。そしてレフトも昔はミカン畑でした。このレフトのミカン畑へ、入学してきた東尾がガンガン放り込むのです。すぐにレフト側のネットが高くなりました。今はご覧のようにライト側も高いですが、昔はレフト側だけが高い東尾ネットだったという記憶があります。ぼくら箕島の人間は東尾はプロ行ったらバッターになるやろと思ってました。
エース東尾もよく尾藤監督にケツバットされてました。でもまったく陰湿なものではなく、みんなで喜んで罰を受けてました。
68年甲子園初出場のチームは東尾のチームでしたが、他にも結構すごいバッターが居て、後に尾藤監督は、実は最強のチームだったと述懐しています。
それからはもう和歌山代表は箕島、箕島が甲子園へ行けば、必ず勝つ、という感じでした。

そしていよいよ春夏連覇。春は準決勝で小早川の居るPLに逆転勝ち、決勝でドカベン香川、好投手牛島を擁す浪商とあたり、逆転また逆転で見事優勝。その夏にあの「激闘18回 星陵対箕島」がありました。決勝も蔦監督率いる徳島池田高校と戦い、文句のない強豪相手の激戦でしたが、やはりこの星陵-箕島戦にはかないません。
当時私は既に27歳の社会人。春優勝した後、予感があり、絶対夏も勝つから・・・と親父を説得して当時30万ほどした出たてのビデオ録画機を買ってもらいました。最初の頃は3倍速なんてありませんでした。45分テープ、60分テープ、90分テープなんてのがあって、120分テープもあったけど高かったから買わなかった?ご近所にはビデオデッキを持ってる家なんてまだほとんどなし。そんな時に夏の試合を1試合も逃すまいと待っていました。だいたい高校野球なんて90分テープ一本で撮れるはずなんです。だけど、あれれ?9回まで行って1:1の同点。この相手の堅田ちゅうピッチャーが打ち崩せない。

2本目のテープに掛け替え、見てると12回の表星陵に一点が入り、箕島は簡単に2アウトを取られます。あぁ絶体絶命!バッターは1番キャッチャー嶋田。これはものすごくいいバッターで出塁率は最高。だけどホームランバッターじゃない。この堅田からは連打が難しい。しかし嶋田は尾藤監督に「ホームラン狙っていいですか?」と明るく言って出たらしい。・・・・見事ホームラン!2階で録画している私も下でTVの周りに釘付けになっている家族も「ぎゃあああああああああ」の大騒ぎ。

さらに延長は続く。もう長いテープがない。3本目を使ったら4本目は永久保存のつもりのラグビーの試合を消すしかない。そんな時ドラマは起きた。(嶋田ので十分ドラマやろ!?) 16回の表にまた1点取られて3:2。そしてその裏、またもや簡単に2アウト。バッターは6番森川(2年生)。打ち上げたーっ!ファースト右へのファールフライ。万事休す!よくやった、君たちは箕島の誇りや。もうええ。胸を張って帰ってこい!そう叫んでいるぼくのTVの中で一塁手がこけている。わぁぁぁぁ、これ何や?
アカン、テープ4本目や。その直後、森川は左中間へ同点ホームラン!3:3。
もう後はいいでしょう。最後に力尽きた堅田君は箕島上野の痛打を浴び、18回裏に散ります。すごい!よくやった!箕島の子供にこんな力があったんや!何とかテープは4本で足りた。   あぁしんど。

(後に私の従姉妹がこの時の箕島の選手の一人と結婚することになり、わが家にあの星陵箕島戦の完全録画があると聞いた彼がテープを借りに来ました。)

お疲れ様。星陵戦になると饒舌になってしまい、えらい紙面を取ってしまいました。
最後にちょっとだけ指導者論を。尾藤さんと言えばやはりあの笑顔です。ベンチに写っている尾藤さんはもちろんいつも笑顔ではありませんでした。でも逆転されたり、ぼこぼこに打たれて帰ってきたナインを迎える時の尾藤さんはほんまに笑顔でした。あの笑顔が苦難に遭っている子ども達にどれだけ勇気を与えたでしょう。そして攻撃に送り出す時の言葉。TV画面では何を言ってるかわかりませんが、あのリズムは素晴らしい。短い言葉をつなぎ、子ども達に合いの手を入れさせ、闘争心をかきたてて、ピッチへ送り出す。あのリズムは勉強させてもらいました。ラグビーのハーフタイムでも実践してみました。

彼の豪放磊落な性格を語るエピソードはいろいろあるのですが、私には子ども達にいろんなことを教えてあげようという彼の姿勢が強く印象に残っています。私の友人が箕島高校の野球部部長になり、その関係で駅前の喫茶店でコーヒーおごってもらったこともありましたが、その友人から「尾藤さんがいっぺん子供らにラグビー教えちゃってくれへんかなぁて言うてるんやけど・・」、と言われてびっくり。ぼくらスクールの小学生相手でもラグビー以外のスポーツ教えてあげる余裕もないのに、天下の箕島高校野球部の監督が。でも箕島高校にはラグビー部があるから・・・とお断りしましたが、もし尾藤監督にあの笑顔で頼まれてたらイチコロだったでしょうね。懐かしい思い出です。
尾藤公監督。箕島のヒーロー。2011年3月6日永眠。まったく惜しい。合掌。