オリンピックはよろしなぁ。ほんまに燃えるわぁ。部屋にTVのないぼくにとってはネットのニュースとかYouTubeとかが頼りやけど、それでも興奮できる。だから今は週一自宅へ帰ったらTVっ子になってます。 普段はラグビーばっかりやってるように見られてるけど、オリンピックシーズンになると「おれはスポーツ好きやったんや」と再認識できますな。 思い出に生きるおっさんとしてはやっぱりオリンピックと言えば東京オリンピックやね。1964年。その数年前からオリンピックが東京に来る、新幹線という超特急列車が走る、と日本は浮かれ気分になってたと思います。(新幹線の開通が1964年10月1日。オリンピックの開会式が同10月10日です。国民の祝日「体育の日」ってのは東京オリンピックの開会式を記念して作られたんですよ?知ってた?) 一見の価値あり(映画「東京オリンピック」より開会式の入場行進)→ 時に私は小学6年生。いつか東京へ行きたい、だけど小学校の修学旅行は奈良京都。その奈良、京都でさえ生まれて初めて修学旅行で行った和歌山の田舎もんに、東京は夢のまた夢でした。親戚もないし、どう考えても中3の修学旅行まで行けるチャンスはないのです。そんな憧れの東京オリンピックでした。 前回も書いたように小さい頃は野球と相撲に明け暮れ、中学校でバスケとかバレーとかそれまでやったことのない競技にも興味を持ち、高校ではラグビー、サッカーに・・・と幅を拡げていきました。だけど普段ほとんど触れる機会もない競技がいっぱいあることをオリンピックで初めて知る訳です。 東京オリンピック最大の思い出はやっぱり女子バレーですな。東洋の魔女。回転レシーブ。鬼の大松。いまどき「鬼の」なんて肩書きの付くコーチはあまり居ませんが、みなさん女子バレーの一流チームの練習見たことありますか?ぼくはニチボウ貝塚の小島監督の練習見たことありますが、そらもう見てて身体震えましたよ。あそこまで追い込むか!?・・ぐらいなもんですわ。だけど大松さんはそんなもんやなかったらしい。それまで特に人気もない女子バレーを世界一のチームにし、今の火の鳥ジャパンまでつなげてる功績は偉大と言っていいでしょうが、もっと言うと、女子スポーツ全体を底上げした功績もあるんじゃないでしょうか?それまで日本女子スポーツが世界で活躍したって話はあまり聞きません。(人見絹枝、前畑秀子と個人競技ではメダリストも居ますが・・) |
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東京オリンピックとロンドンオリンピック。間に48年の開きがあり12歳の和歌山の少年も60歳の岬のおっさんになってしまいました。最後に書きたいのはサッカーの躍進です。メキシコオリンピックは東京オリンピックの次で1968年。その時まだ24歳だった釜本は日本チームのエースとして銅メダル獲得に貢献します。その3位決定戦が今回準決勝で戦ったメキシコチームでした。 |
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昔、岬のFコーチと呑んでると、「おれはラグビー教えてるけど、いくらがんばっても世界一になれない競技を教えていてよいのか?センスのある子なら何でもできるんだから世界一になれる可能性のある野球とかサッカーを教えた方がいいんじゃないか?」としょっちゅう言ってた時期がありました。 |
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