今回は中学部について少し統計データを使いながらご紹介します。
まず右のグラフをご覧下さい。
これは岬ラグビーの在籍人数を年別にグラフ化したものです。西暦年の下の数字はその年の小6が何期生かを表しています。
小学部は幼児も含め、100人に手が届く時代がありました。
これをわれわれはスクールウォーズ世代と呼んでいます。下の写真にある1981年お正月の花園決勝戦「工大vs伏見」の軌跡(奇跡!)を題材にしたTVドラマ「スクールウォーズ」の放映は1984-1985年でこの頃ラグビー人気は頂点に達しました。スクールウォーズを見ていやがる息子を無理矢理ラグビースクールに放り込んだお母さんがいっぱい!
しかし、少子化、子供のスポーツ離れ、ラグビーが3Kスポーツと言われる世情など、そしてもちろん我々の努力不足もあって団員の数はどんどん減り、2005年には創立以来の20人台に落ち込んでしまいました。そこから何とかがんばって現在は回復基調にあります。
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一方、中学部は少しずつ数を増やしていますが、これは中体連に加盟している岬中学とスクール加盟の岬スクールの2チームを足した数字ですので、各チームは人数不足ですし、中学ラグビーが近い将来15人制になることなどから人数不足の事情は変わりません。この2チームに分かれている理由はスクール小学部の構造にあります。以前は小学部は圧倒的に岬町の子供が多かったため、中学の受け皿が岬中学ラグビー部だけでもよかったのですが、今は岬町の子供は全体の30%に満たず、泉佐野市、阪南市の子供の方が岬町より数が増え、泉南市、貝塚市、熊取町、和歌山市なども含め、岬町外の子供にラグビーを続けてもらう受け皿として新たにスクール中学部が2年前に誕生した訳です。
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さて本論です。今、高校や大学で岬OBが活躍してくれていることはこのホームページでも多く紹介されていますが、昔はこんなにたくさんの選手がラグビーを続けてくれることはありませんでした。このように事情が変わってきた背景には中学部の存在の変容があります。
これを右のグラフで説明します。横軸は先ほどと同じ何期生かを表しますが、ここでは同じ学年の子が小学部を卒団する時は何人、その3年後の中学部卒団時は何人、その3年後の高校卒業時は・・・というように同じ軸上で追いかけています。
<スクールチーム時代>
1期生から16期生までは小学部卒団者数に比して中学以降継続する者が非常に少ない傾向にあります。当時、岬中学にラグビー部はなく、スクールの活動はしていましたが、単独チームとして試合が組めることはほぼなく、合同で年間に数試合できればよい方という時代でした。この頃は学校でクラブ活動しているとだんだんそちらが忙しくなり、卒団まで行き着かず辞めていく子の方が多かったのです。一度ラグビーを離れて、高校でラグビー部に入部してくれる子もスクールウォーズ世代には多かったのですが、それは岸和田高校、和泉高校、岬高校など学区内にたくさんの高校ラグビー部があった頃まででした。これら公立高校ラグビー部は部員減少からすべて廃部となり、いまだに回復の兆しはありません。
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<中体連チーム時代>
こういう状況を一変させたのが17期生達の岬中学へのアタックによる岬中学ラグビー部の誕生でした。(上の写真は彼らの中3当時です。)
この当時はほとんどの子供が岬町民だったので、彼らは岬中学へ進学し、ラグビー部を作り、そして大半が高校ラグビーを続けてくれました。この流れに乗って上のグラフのように小学部でスタートした子の多くが高校、さらには大学までラグビーを続けてくれるという形ができてきました。(小学部より卒団者が多い年もあるのは中学部で新たにスタートする子が居るからです。)
この頃、岬町以外の子供の中でラグビーを続けたい子には、自分の通う中学にお願いして部員一人でもラグビー部を中体連登録してもらい、岬中学と合同出場するという手もあり、実際に何名かはそうしましたが、中体連には「12人以上のラグビー部員が在籍するラグビー部は他校との合同出場はできない。」という厳然たるルールがあり、岬中学に新1年生がたくさん入部したら途端に合同活動ができなくなるという困った問題があったのです。
とは言え、この時代のお陰で中学部の活動が充実したものになり、高校大学で続けてくれる子供が大変多くなりました。そうこうしている内に岬中学にもコーチが誕生し、スクールのコーチが教える必要がなくなりました。
<スクール・中体連併設>
先述の通り、小学部団員数が一度は激減し、そこからの回復は主に岬町以外の団員の増加という形で行われましたので、2年前にスクール中学部が復活した訳です。岬という名前が付いているために狭い町内に2つの中学チームがあるという一見おかしな状態に見えますが、岬中学と違い、スクールは貝塚市から和歌山市までの広域をカバーしているクラブなのです。
中体連時代にもう一つ大変重要な変化がありました。それは大阪南地区中学部合同活動です。9年前に堺、八尾両スクールの呼びかけにより、南大阪、冨田林、岬の5チームが合同で練習し、試合に出場するということが可能になり、このお陰でスクールの方も「スクールチーム時代」に比べるとはるかに充実した活動ができるようになりました。これを執筆している現在はまだ併設2年目で、その成果が見られるまでには至っておりませんが、着実に進んできています。
左のイラストは南地区合同活動が10年を迎えた記念ポロシャツ/Tシャツのデザインです。いよいよ10年目を迎える4月からのシーズンは4月に合同合宿、5月に記念遠征(愛知スクール選抜との試合)などが企画され、ますます中学ラグビーを盛り上げ、それが高校ラグビー、大学ラグビーへとつながり、そしてひいては2016年リオデジャネイロオリンピックでのセブンスラグビーへ、2019年のワールドカップジャパンへとつなげていこうという夢を抱いている訳です。
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